【邪馬台国と卑弥呼の墓の候補地】 纒向古墳群 箸墓古墳と纒向遺跡 奈良県の巨大古墳②
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- Опубликовано: 28 янв 2025
- 考古学チャンネルです。この動画は奈良県桜井市にある纒向古墳群と纒向遺跡について解説した動画です。
奈良盆地東南部は、日本最初の王権が誕生した場所です。ここには王都とも考えられている纏向遺跡や、前方後円墳が初めて作られた古墳群と評価されている纒向古墳群があります。中でも卑弥呼の墓ではないかとも言われる箸墓古墳が有名です。今回は、纒向古墳群と纏向遺跡を紹介します。
【参考にした書籍・サイト】
桜井市埋蔵文化財センター 『HASHIHAKA』-始まりの前方後円墳-
桜井市纒向学研究センター 纒向遺跡ってどんな遺跡?
www.makimukugak...
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#箸墓 #纒向遺跡 #邪馬台国 #卑弥呼
箸墓古墳、すごいなあ。映像も、全景がしっかり見えて、わかりやすいです。
コメントありがとうございます。確かに箸墓古墳は凄いですね。これだけ大きな古墳になると、地上からではわからないので、全体像をつかむには空撮が一番ですね。
3世紀代に「王権」が誕生したことに改めて驚かされました。弥生時代から古墳時代への移り変わりは、地域差は勿論あるでしょうが、大きな変化だったことが伝わってきます。それにしても箸墓古墳はいつ見ても「美しい古墳」ですね!
コメントありがとうございます。そうですね ! 本当に箸墓古墳は美しいですよね! でも明治初期の写真を見ると、本当に木がほとんど生えていなくて、同じ古墳なのかと思うと同時に、百数十年間でこんなにも変わってしまうのかと驚きます。墳丘の保護のためには、ない方が望ましいですが、陵墓指定されていることを含め、なかなか難しいですね。これからもずっとこのまま伝えられて欲しいですね。
纒向には天皇の宮があったから宮の跡が出てくるのは当たり前っちゃ当たり前ですが、ようやく考古学が神話に追い付いてきましたね😋出雲も然り。
なのに何故かシュリーマンの時みたく「すわっ!やはりあの神話は本当だったのか~!」的な騒ぎにならないのが不思議ですな🤔
纒向型前方後円墳が採り上げられるのは珍しいですね
5;43「箸墓古墳以外は弥生時代の墳丘墓で」とあるが、「前方後円墳」の形状は明らかに弥生時代の墳丘墓の形状とは一線を画している。規模も、典型的な弥生墳丘墓の1辺数十メートルと比べ、同古墳群中最古の巻向石塚古墳でも全長99mと段違い。ド素人考えでは、巻向古墳群のは古墳時代としても良いようにも思えてくる。
寺澤薫さん達は、社会的画期をもって時代区分とし、それが纒向遺跡の成立にあるとして、これをもって古墳時代の開始とし、その時代に築かれた纏向石塚古墳などは古墳だと考えておられると理解しています。ただ、全体としては少数派で、箸墓の巨大性、石室の構築方法や副葬品の在り方など、前方後円墳の要素が出揃ったことをもって、箸墓を最初の前方後円墳と定義し、古墳時代の開始と考える研究者が多いのではないでしょうか。定義の問題ですので、おっしゃっておられることは1つの説として間違いではないと思います。
個人的に思うのですが、前方後円墳や前方後円型墳丘墓といった物はもしかして(壺型土器)をモデルにして作られているんじゃないでしょうか? 壺型土器を側面から見た形が古墳の形状に大変似通っていると思われます。
確かそういう説はあるんじゃないですか?ただ、証明するのは非常に難しい気がします。明らかになった事実から、無理のない解釈がどこまでできるのか、考古学の面白さでもありますが、難しさでもありますね。
私は、纏向遺跡は邪馬台国論争よりも日本武尊の出生地であり当時の都として話題になって欲しいと思います。また桃太郎こと吉備津彦命が活躍した時代であり野見宿禰が初めて相撲を取った時代であり、田道間守が不老長寿の実として橘を持ち帰ったと伝承される時代であり、纏向の外になりますが伊勢神宮や熱田神宮の建てられたとされる時代です。王権の成立はもう少し前かもしれませんが、現在まで続く日本の大元ができた大転換期だったのは確かなはずなのでもっと詳しく判明して欲しいと願っています。
魏志倭人伝自体は三国志正史の一つ魏書の巻末にある東夷伝の更に巻末の一文でその信憑性に乏しく、これから当時の日本は断片的にしか知ることができず、また誤りも多いのではと思います。
コメントありがとうございます。ほとんど魏志倭人伝しか文字資料がないうえに、どこまでが真実なのかもわからないので、なかなか難しいですね。考古学の成果と突き合わせていく中で、いつか真実が明らかになるといいですね。
邪馬台国は九州北部か奈良県、飛鳥時代と奈良時代は奈良県、平安時代は京都、鎌倉幕府は鎌倉、室町時代は京都、江戸時代以降は東京を見ると東京、大阪、福岡は4大都市と呼ばれていますが、大都市になるべくして大都市になった感じがあります
当時は「古墳サミット」で各地の最有力者がヤマト(纒向)に集結していた。墓制を統一するに当たって纒向型が採用され、ヤマトにいた各地の首長はこの地で亡くなると其々に埋葬された。例えば弧文円盤出土の「纒向石塚」は吉備王、葺石多数の「ホケノ山」は出雲王など試行錯誤の段階であり、企画は最終的に箸墓に集約された。当時の倭国王の卑弥呼はこの完成形の墓に埋葬されたのではないか?
纒向で試行錯誤した墳形は、土木技術に優れた渡来人の指導のもとに完成されたのでは?
箸墓に卑弥呼が葬られているかどうか、私にはわかりませんが、各地の要素が箸墓に集約されてできたというのはその通りだと思います。
指導したのは原住民
なんで帰化人が指導すんの?逆でしょ
邪馬台国って小国連合っていうか、環濠集落の寄せ集め的なものじゃなかったっけ?
集権的な強力な権力基盤なんて無かったんじゃないのかな?
卑弥呼の墓なんてちっぽけなもんじゃないのかね?
纏向が日本最古の王権の誕生した遺跡と呼ばれるのは、この地に都を置いた第十代祟神天皇がハツクニシラススメラミコトとも呼ばれているからですが、橿原で同様の遺跡が見つかったら覆るかもしれませんね。
倭迹迹日百襲比売命は卑弥呼とも比定されますが、7歳で讃岐国へ派遣された際の伝承からかぐや姫のモデルではないかとも言われ、桃太郎こと吉備津彦命の姉でもあり、日本の昔話の大元のような方です。
この時代には相撲の開祖野見宿禰が活躍した時代でもあり(相撲神社もこの付近にあります)、いろいろと日本的なものが確立した時代でとても興味深いです。
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ヤマトヒメは13才で竹の都のいつきの宮(多気の斎宮)に使わされてしかも天皇が死ぬまで大和に帰れないのでかぐや姫そのものずばりかと思う。まるで罪を償わされるかのごとく神に仕えないといけない人質的な悲劇性はさらにかぐや姫的な感じである。
日本最古の前方後円墳といわれる
前方後円墳は西の王墓[九州、出雲に多い]の方墳、東の王墓[河内、大和に多い]の円墳を王朝統一のシンボルとして合体させた王墓
決して⭕️⭕️の🏺の形では無い
魏志倭人伝に依ると卑弥呼の墓は方墳で有ると云う
記述と同じ方墳が発見されたことが有り一時卑弥呼の墓と比定された
北九州久留米の観音山古墳がそうだといわれる
考古学者には、邪馬台国論争は一旦置いといて、纒向遺跡・箸墓古墳の「正当な評価」を期待したい。
邪馬台国じゃなくても超重要な事には変わりません
全く持っておっしゃる通りですね。現場の方々はそういうことはないとは思いますが、行政の中には、町おこしを狙って、かなり膨らませた表現を使う傾向が一部にあるように見受けます。町おこしはそれとして、客観的な成果を積み上げた上で結果を導き出していただきたいですね。
こんな立派な前方後円墳は誰が大倭(大和)国に造ったのですか? 縄文由来の方々が技術を持っていましたか。技術と原型を持った人がどこからかやって来たからではないですか。海を隔てた西隣には技術と原型を持った邪馬壹国(倭国)がありましたよね。 卑弥呼は邪馬壹国に居ました。
伝承があるから先入観が出て、逆に混乱する。そもそも箸墓古墳の被葬者はホンマに女性なのだろうか。例えば神功皇后なら、一部の風土記では「天皇(すめらみみこと)」と記録されているし、日本書紀では独立した紀とし記述されてるから、大きな古墳だったとしても誰も驚かないはず。でも業績もない姫様のためだけに箸墓のような大きな古墳を造ったのだろうか?有力者の奥さんや子供は倍塚になることが多いのでは?
人骨の鑑定によって、女性が埋葬されたことがわかっている例もありますので、一概に被葬者が女性ではないとも言い切れないと思います(箸墓古墳の被葬者が女性だと主張するものではありません)。古墳の被葬者に限らず、どうしても現代の価値観で判断しがちですが、当時の社会がどのような社会だったのかを理解しないと、歴史を評価することはなかなか難しいですね。自戒を込めた思いです。
箸墓古墳はこの地域における大王墓と言っていいと云われています。ただいきなり邪馬台国や卑弥呼とつなげるのは不明な点が多く危険です。C14年代測定法は相当誤差が大きいとされ、一説には100年の誤差が出るのではとされ出土品の積み重ねが必要とされます。従って動画では3世紀との話が登場しておりますがこれは十分な根拠に基づいて確定した説とは言えないと考えられます。寧ろ4世紀と云う可能性も考えられ確定出来ない実状を認識すべきと存じます。また魏との交流を示すものが殆ど出土していないことが明らかになっています。以上のことから邪馬台国などと云うことは現時点でも取り上げるべきではないと考えます。
卑弥呼と断言するのは現時点では危険と仰るのはその通りだと思いますが、箸墓古墳をこの地域のみで築けたと考えるのは、坂氏くらいではないでしょうか。魏との交流を示すものも、ほとんどが伊都国までしかありませんので、福岡平野で考えても状況は同じだと思いますが。
箸墓古墳は桃太郎ママでOKでしょ。卑弥呼と絡めるのは無理がありすぎます。
日本最古の前方後円墳は阿波の萩原2号墓でしょ?何言ってんの?
ホケノ山古墳ですら萩原2号墓の影響を受けて
阿波人がかかわって奈良古墳群を作ったって
新聞にも載ってますよ。
纏向なんて4世紀の土器が出てるので完全に4~5世紀だし。
萩原2号墓は前方後円形の墳丘墓であって、古墳ではないですよね? 形が前方後円墳形だからといって古墳かどうかというのは別問題でしょう。阿波地域が畿内の初期の古墳作りに影響を与えているのはその通りでしょうね。
@@koukogaku 陰謀論でも何でもなく、ホケノ山纒向を日本最古の前方後円墳にするために、それ以前に作られた萩原二号を古墳と認定せず、墳墓にしてるだけで萩原二号は完全に前方後円墳ですよ。
萩原二号をよく調べて見て下さい、なぜホケノ山が古墳で萩原二号が古墳にならないか理解出来ないぐらい全く同じです。
阿波に最古の前方後円墳が存在したらよっぽど困る人達がいるのでしょうね
@@猿飛サスケ-u8g 萩原2号墓は前方部というより、 突出部というようなものです。しかも研究者の間でもこれを前方部状のものとするかどうかで見解が分かれており、円形墓と考えている研究者も多いです。埋葬施設についても、石槨の立ちは低く、ホケノ山古墳とは比較になりません。木槨についても、現状の調査からは木棺を安置しているのは想定出来ても、木槨構造を復元する材料はありません。
解明当時の新聞記事
(築造は弥生時代終末期の2世紀末~3世紀初頭で、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料となる)
しばらく前に議論が収束しているので書き込みに迷いました。
コロナ禍で古墳ばかり登頂しておりましたら古墳が好きになっていき現在は趣味であり個人で研究(といえる程ではないと思いますが)していて、教育系のサークルでも話を出すことがあります。
個人的に弥生墳丘墓と古墳は定義が難しいと考えます。先日(専ら研究されている方から見れば)勝手にサークルで「このような変遷では?」というのを論じました。
私は、「纏向型前方後円墳→柄鏡型→撥状に開いた形→一般的な前方後円墳」と考えますが、纏向型は纏向地方には多いものの、全国では少ない。また、柄鏡型、撥状のものは全国でも点在しているが吉備には箸墓の1/2,1/3相似墳が存在している。また、地方を雑多に見渡せば、纏向といつから交流があったかによって墳墓の変遷も纏向と同時期か纏向より後かが決定しており、「許可制」だったのかは不明瞭ですが、そのあたりが判然としないのでいけないと思います。
纏向小学校付近の墳丘墓(纏向型前方後円墳?)はそれを紐解く鍵になるが、現地に行くと農園や個人の敷地につき立入禁止となっていました。しかも荒れ放題です。これを解明するべく動かないのは非常に勿体ない。確かに不明瞭ではあるが、一部西暦170年やら西暦180年あたりのものも出土しているわけで。それを考えればその当時纏向地域と阿波地域と交流があったか、或いは阿波地域が最先端だったかになるが、墳丘墓から前方後円墳の成り立ちを鑑み、それらがどう派生していったか議論できる纏向、唐子・鍵近辺が最先端であり、都だったと考えるのが普通かと思います。吉備とはかなり古くからの親交(紀元前1世紀頃から?)もあったようですからね。また、吉備は相似墳もあれば、吉備とのつながりを示す埴輪の出土もあるので、必然というべきかわかりませんが、阿波地域は都機能や、卑弥呼の存在が自動的にないと考えてもおかしくないと(素人ながら)考えます。
また、卑弥呼というのはよく女性像で描かれがちですが、卑弥呼→卑弥弓呼→台与?という流れとされますが、魏志倭人伝にある卑弥弓呼は熊襲の可能性も否定できませんし、魏志倭人伝の「卑弥呼」そのものが役職であった可能性を否定できません。
どうしても九州とか阿波とかにしたい人が多すぎて流石に引くわ😅
纏向説は単なる思い込みの妄説ですよ!詳しくは刮目天の古代史を調べてみてください。blog.goo.ne.jp/katumoku10
倭迹々日百襲姫は卑弥呼であり,箸墓はその墓に決まりですね。
三世紀にこんな大きな陵墓を築造できるのは卑弥呼だけでしょう。
可能性はあると思いますが、現状の資料では確定とまではいかないのではないでしょうか。いつか調査がされて、少しでも謎が解明される日が来るといいですね。
考古学はでたらめなのか!